2008年1月号
曖昧のテイスト (その1)
コンサバトリー輸入20年目の所感
AKIRA YAMADA
一級建築士・景観デザイナー
計画機構+アルファコンサバトリーズ代表

 

伝統的日本家屋には縁側や土間といった半屋外空間が存在した。戦後は生活の洋風化が進み住宅も輸入住宅の増加にともなって内部と外部にはっきりと区別された空間構成となってしまった。

ヨーロッパでは産業革命以後板ガラスの発達によりオランジェリーやコンサバトリーが作られるようになり、農業工業化に伴ってガラスハウスの中で植物との共生が進み、庭の延長としての半屋外空間として発展してきた。日本の現代生活はこのあいまい空間を切り捨て機能優先のものづくりをしてきた。日本の気候風土に根ざした精神性は比較的欧米の精神性に比して曖昧で緩やかで、拒否することなく何でも受け入れてきた。縁側や土間は自然を取り入れる空間として長く日本人の生活の中心にあった。近代化が進むにつれ曖昧さのもつストレスの少ない日本の良さが損なわれつつある様な気がする。

 

2007年は偽装問題で明け暮れた。偽装はイタチごっこになる。数字で画一的に決めてゆけばどんどん窮屈になる。食の偽装は賞味期限なるものを画一的に決めたために食べられるものでも破棄してしまう事態になっている。こんなバカな法律が悪い!と気が付くべきだ。ほんの少し前までは製造年月日のみでそのあとは個人が判断していた。私は腐る迄は賞味期限として個人が保存や食べ方に気を付けるべきものと思っている。個人の感覚を研ぎ澄まし、曖昧という味を楽しめばいいのではないかと・・・
建築偽装はどうか、確かに法律違反はまずい。しかし建築は昔から建っている、何十年も何百年も法律が無い時代から。日本は地理的気象的にハンデを負っている。地震と台風で常に建築は脅威にさらされ大地震が起こる毎に基準は厳しくなり、またコンピュータの進化により構造計算は細密になり鉄筋一本にまで計算がおよび、結果自分で自分の首を絞める状況に追い詰められた。以前アナログ計算の時代は安全率を診ているので鉄筋1本や2本を間違えても大丈夫なものとして(人間は常にミスや勘違いを起こすものとして)建築は出来ていた。
今の基準に合わないからといって2007年の漢字「偽」の文字を書く清水寺の舞台に鉄骨を張り巡らす事はしないでしょう?世界遺産に登録が決まったコルビジェの上野にある西洋美術館は当然ながら新耐震基準以前の建築である。鉄筋1本に目くじらを立てるお役人は残念ながらこれらを訪れる事は出来無いだろう。
基準は厳しくしても判断はもっと曖昧にできる社会を望みたい。信頼できる医者に命を委ねられるように、建築家に単なる数字上の基準だけでなく判断を委ねられるような建築基準法であって欲しいと思う。

 

昔ピラミッドパワーなる所作が社会流行した事がある。三角形のフレームの中に座し瞑想すると何やら怪しげなパワーを授かるというものである。コンサバトリーの中に寛ぐと、こんな怪しげな事ではなく本当に太陽の不思議なエネルギーによって人が何となく元気になる、というような事を感じ始めている。最初にコンサバトリーを輸入してから20年に渡りお客様と接するに連れ、そのような事が感覚として出来てきている。森林浴は健康に良い事は実証されている。全ての動植物は太陽エネルギーの恩恵を受け命を授かっている。半屋外的で昔の縁側感覚の中間領域と言えるようなコンサバトリー癒しの空間で、現代社会の持つ厳しい側面から一歩引いてみて人間本来のストレスの少ない曖昧のテイストを楽しみたいものだ。