2009年1月号

曖昧のテイスト (その5)
激動の2009年の初めに、この国のかたちを考える

●お雑煮から始まる「規制緩和論」
師走のある日の日経新聞コラムに、「正月には日本中で雑煮を食べるが、仕立ても味も地方によって千差万別」というものがあった。そのコラムによると、「さまざまな風土伝統に基づく創意工夫によって、豊かな料理のバリエーションが生まれた」ということであった。 同コラムにはその一方で、「国が地方を縛っている項目が1万項目に上る。そのうち地方分権委員会が4000項目を不要としている」と指摘。馬鹿馬鹿しい規制の一例として、「保育室または遊戯室の面積は2歳以上の幼児1人につき1.98㎡。授乳児だと1.65㎡、2歳未満は3.3㎡」といった保育所の基準について紹介していた。
果たしてこんな規制に意味があるのか。コラムは「安全や安心のためには捨てられない規制もあろうが、がんじがらめでは創意工夫が生まれない」と結んでいる。
さらに皮肉を込めて、こうした規制について「まるで雑煮の餅の切り方や、かまぼこの枚数まで決まっているかのような錯覚さえする」と嘆いている。●食材も規制も「所変われば品変わる」
世界の食文化に興味がある筆者(私)は、このお雑煮から始まる規制緩和展開に大いに共感した。昔から言われている「所変われば品変わる」と言う言葉。私は世界の食文化に触れるにつれ、この事を強く感じている。
例えばイタリア食材で欠かせないのがアンチョビである。駄洒落料理建築家を自称する私は、これを日本料理に使った「あんちょびっと料理」シリーズというものを創った。その折に色々調べてみると、魚の発酵食材「魚醤」は東へ来るとナンプラーなど、日本に渡って秋田の「しょっつる」となった。また中国で生まれた麺は西へ行ってパスタとなり、日本に渡ってうどんとなった。
食材だけではない、規制ルールも品変わる。英国の住宅地では酔っ払って歩くと罰せられる。北欧のバーでは酔った客には酒を売ってはいけない(酒を飲む処で酒を売っていけないというルールは日本の飲兵衛天国では考えられないだろう)。また、NYの通勤フェリーでは1.5m離れた場所でイヤホンからの音が聞こえると罰せられる。迷惑になるようなルールは細かくどんどん決めて、運用の面では比較的ルーズに適用する。何かあれば取り締まりが可能なようにコンセンサスを得ておく。これが大人社会への第一歩であろう。

●中央の基準ではなく、地域それぞれの創意工夫を尊重しよう
ごく少数民族で島国の日本国においては、近年のネット社会構築によって黒船以来のグローバル化の波に洗われているが、先進国の世界基準からはまだまだ未成熟な部分が露呈されている。これは対世界に限ったことではないと考える。
日本国内においても、戦後の高度成長期から意識の変革が遅れている。江戸時代までは日本の地方それぞれが一国家であったが、それがここ100年の短時間に国内のグローバル化が進み、中央の基準が地方の基準に当てはめられてしまった。 International(国際)という事は、National(地方)がそれぞれインターによって結ばれることを意味する。高速道路のインターチェンジを降り立つと、それぞれ独立した文化や慣習があるという形が望ましい。国の基準を金太郎飴のように押し付けるのではなく、もっと基準を曖昧にし、地方の創意工夫を尊重したルール作りを望みたい。

●伝統的日本家屋にあった、家の中の「インターチェンジ」
英国コンサバトリーを20年扱ってきた私は家の中のグローバル化も同様と感じている。
伝統的日本家屋は、縁側や土間といった中間領域を有していた。戦後は洋風化が進み、エクステリアとインテリアに区切られ、中間的なスペースが失せた。
英国で200年近い歴史を持つコンサバトリーは、まさに外部と内部をつなぐインターナショナルなスペースである。この曖昧な空間こそが家のインターチェンジな部分となり、そして建物単体に限らず街との関係においても、より成熟した街並みの創造となると確信している。
曖昧な空間であるコンサバトリーで、インターネットから簡単に取り寄せられる世界の食材を使ってガーデンパーティを堪能してみる。守るべき伝統は継承しつつも、大いに意識改革を行う必要がこの国にはあると痛感している。