2009年3月号
曖昧のテイスト (その6)
日本の建築美意識もアジアン雑多に淘汰されるか
●年月を経てなお美しい
ヴィンテージ建築群若い頃ニューヨークMOMAにて、ジャスパージョーンズのアメリカ国旗を描いた絵を見た。現代アートの旗手がまさに「旗」(flag1954)をモチーフに記号かアートかと旋風を起こした作品。図録で見ていたより思いの外小さめの印象であったが、丹念に十分塗り重ねられたマチュエールからは優しさ、悲哀、郷愁、と言った記号を通り越したアートとしての印象を得て、それ以来好きなアーティストとなった。
赤白のストライブでまるでアメリカ国旗を描いたような外壁の住宅、最近話題となった某漫画家の家は余りに強烈なので住民から景観にそぐわないと訴えられた。見た人の意見の中にはそんなに目くじら立てるほどキテレツではない、もっと変な住宅が近くにあったとか、裁判一審では地元民の訴えは棄却された。
国家や地域をかたち創る建築の美しさは建築単体よりも集団的「群」としてであろう。英国の田園風景、スイス・イタリアなどの山岳地方の山村、サンフランシスコの木造‘密着’住宅群、アムステルダムの運河沿いの街並み。これらは皆、個が全体によって統一され、同じ材料同じ色調だったり、色はバラバラでも作りが一緒であったり全体を構成するひとつの建築という意識が働いている。
日本だって負けてはいない(日本建築の美しさはブルーノタウトが桂離宮を絶賛した事で言うに及ばず)。知覧の武家屋敷群、京の町屋、高山の茅葺民家、金沢の黒瓦屋根建築群、函館元町の和洋折衷建築群など、年月を経てなお美しいヴィンテージ建築群。誰もが日本や世界を旅してこれらを美しいと感じる心は持ち合わせているのに、なぜ街のかたちを創れないのか?日本の都市の雑多さがアジア的でいいと旅人は言うがそれは住む事と訪れる事の違いであり、美しいとは言い難い。日本人の洗練されていた美意識は何処へ行ったのだろう? ●何を残し何を変化させるか英国は近代社会を形作った知恵の源泉がある。産業革命以後、諸々の重工業や軽工業、ツーバイフォー住宅も英国で生まれてアメリカ経由で日本に入った。パソコンも、高機能の板ガラスも、近代化を推し進めた技術の宝庫だ。スポーツだってサッカー、ラグビー、テニス、野球と原型は英国から生まれた。明治政府は日本の近代化を進めるために英国をお手本とした。技術だけでなく教育制度や議会や法律などを含めて。しかし当の英国は早々と時代の変化に制度を変化させ、真似た日本は未だに明治に決めた法律に縛られている。英国に習った学校制度6、3、3年制などは英国は遥か昔に変化させている。典型は英国ロイヤルバレエ団が日本人熊川哲也を東洋人初めてのプリンシパルに抜擢、20年前日本では考えられない事であった。何を残し何を変化させるか、今改めてそれを英国の英知に学びたい。
イギリスの福祉施設の視察した時、戦前までマナーハウス、戦後小学校になり、今は老人ホームとして使われている建築を見た(日本の場合は建物種類が変わると細かい法律によって元の建築は使えないのが大部分)。外観は変えない、と言うか変えられない。基本的に古い建物は外観を変えられない法律がある。ただ多少の手は入れられるので、コンサバトリーを付加したり内装を変えたり工夫して古いものを使っている。自分たちの「風景のかたち」は変えない—戦後のアメリカ大量消費から英国スローデザインへ転換し、ストレスフリーな「まち」を創ってゆきたいものだ。
ヴィンテージ建築群若い頃ニューヨークMOMAにて、ジャスパージョーンズのアメリカ国旗を描いた絵を見た。現代アートの旗手がまさに「旗」(flag1954)をモチーフに記号かアートかと旋風を起こした作品。図録で見ていたより思いの外小さめの印象であったが、丹念に十分塗り重ねられたマチュエールからは優しさ、悲哀、郷愁、と言った記号を通り越したアートとしての印象を得て、それ以来好きなアーティストとなった。
赤白のストライブでまるでアメリカ国旗を描いたような外壁の住宅、最近話題となった某漫画家の家は余りに強烈なので住民から景観にそぐわないと訴えられた。見た人の意見の中にはそんなに目くじら立てるほどキテレツではない、もっと変な住宅が近くにあったとか、裁判一審では地元民の訴えは棄却された。
国家や地域をかたち創る建築の美しさは建築単体よりも集団的「群」としてであろう。英国の田園風景、スイス・イタリアなどの山岳地方の山村、サンフランシスコの木造‘密着’住宅群、アムステルダムの運河沿いの街並み。これらは皆、個が全体によって統一され、同じ材料同じ色調だったり、色はバラバラでも作りが一緒であったり全体を構成するひとつの建築という意識が働いている。
日本だって負けてはいない(日本建築の美しさはブルーノタウトが桂離宮を絶賛した事で言うに及ばず)。知覧の武家屋敷群、京の町屋、高山の茅葺民家、金沢の黒瓦屋根建築群、函館元町の和洋折衷建築群など、年月を経てなお美しいヴィンテージ建築群。誰もが日本や世界を旅してこれらを美しいと感じる心は持ち合わせているのに、なぜ街のかたちを創れないのか?日本の都市の雑多さがアジア的でいいと旅人は言うがそれは住む事と訪れる事の違いであり、美しいとは言い難い。日本人の洗練されていた美意識は何処へ行ったのだろう? ●何を残し何を変化させるか英国は近代社会を形作った知恵の源泉がある。産業革命以後、諸々の重工業や軽工業、ツーバイフォー住宅も英国で生まれてアメリカ経由で日本に入った。パソコンも、高機能の板ガラスも、近代化を推し進めた技術の宝庫だ。スポーツだってサッカー、ラグビー、テニス、野球と原型は英国から生まれた。明治政府は日本の近代化を進めるために英国をお手本とした。技術だけでなく教育制度や議会や法律などを含めて。しかし当の英国は早々と時代の変化に制度を変化させ、真似た日本は未だに明治に決めた法律に縛られている。英国に習った学校制度6、3、3年制などは英国は遥か昔に変化させている。典型は英国ロイヤルバレエ団が日本人熊川哲也を東洋人初めてのプリンシパルに抜擢、20年前日本では考えられない事であった。何を残し何を変化させるか、今改めてそれを英国の英知に学びたい。
イギリスの福祉施設の視察した時、戦前までマナーハウス、戦後小学校になり、今は老人ホームとして使われている建築を見た(日本の場合は建物種類が変わると細かい法律によって元の建築は使えないのが大部分)。外観は変えない、と言うか変えられない。基本的に古い建物は外観を変えられない法律がある。ただ多少の手は入れられるので、コンサバトリーを付加したり内装を変えたり工夫して古いものを使っている。自分たちの「風景のかたち」は変えない—戦後のアメリカ大量消費から英国スローデザインへ転換し、ストレスフリーな「まち」を創ってゆきたいものだ。